Dr. Bala

Video Gallery


5月5日トークイベント

ドキュメンタリーの面白さ

ゲスト

三浦啓一(公益社団法人映像文化製作者連盟 理事・事務局長)

大村和弘医師

馬詰正プロデューサー

コービー島田監督


4月29日トークイベント

ストーリーの紡ぎ方

ゲスト

佐藤友美(CORECOLOR編集長)

安藤梢(医療ライター)

大村和弘医師

馬詰正プロデューサー

コービー島田監督


5月3日トークイベント

仲間/チームとは

ゲスト

宮本 英俊(アジアラグビー普及団体TEAM TOSS事務局)

中村洋平 (立教大学ラグビー部ヘッドコーチ)

冨岡鉄平(元ラグビー日本代表&東芝ブレイブルーパス元監督)

大村和弘医師

馬詰正プロデューサー

コービー島田監督


5月4日トークイベント

ルーツを辿る

ゲスト

市川 晴久 (町田商工会議所青年部 副会長)

原 智之(町田商工会議所青年部 委員長)

大村和弘医師

馬詰正プロデューサー

コービー島田監督


5月6日トークイベント

人の力とは何か

ゲスト

小比類巻 貴之 (格闘家。 ISKA世界スーパーウェルター級チャンピオン/ K-1 WORLD MAX 2004.2005.2009日本チャンピオン 小比類巻道場 会長 エグゼクティブファイト武士道 ファウンダー)

國分利人(空手全日本選手権・アジア大会・ワールドゲームス覇者)

大村和弘医師

馬詰正プロデューサー

コービー島田監督


Dr. Bala ポレポレ東中野 公開初日


Dr. Bala Short Movie 第5弾 ”2023年劇場公開へ”


Dr. Bala Short Movie 第4弾 ”2022年プロモーション”


Dr. Bala 予告 ”ポレポレ東中野にてGWより公開”


大村医師&コービー監督 山口県防府市 FMわっしょい 生出演


Dr. Bala Short Movie 第3弾 ”ポストプロダクション編”


映画完成記念 関係者お披露目会 2022年3月26日

 

映画完成記念 関係者お披露目会 2022年3月19日


いろんな種類の笑顔がある

いろんな種類の人生がある


Q,これからの世界を生きる若者たちにメッセージ

馬詰_今の世界って、コロナに世界が覆われているように、こうやってリモートで撮影するように、実際に人と会わなくても何かが出来たりとか、そういう技術や気分が世界中を覆っているところがあると思います。

カズさんが実際に世界に出ていって、いろんな人達と会って、話をして、世の中を動かしてきたことの素晴らしさをこれからの時代を生きる若者にメッセージを頂きたいと思います。

カズ_世界の人たちと触れ合っていく、僕の父親はある診療所をやっているので、その診療所の周りの人たちを助けてる。その人達の笑顔を人生かけて守ろうとしている。つくろうとしている。

市中病院の人たちはその市の周りの人達を。っていうように僕としては世界と関わらないとダメだよ、とか、世界と関わっているのは凄いんだよって言うつもりは一切なくて、ただ、いろんな種類の笑顔があるんですよね、いろんな種類の人生があるし、そこと出会っていく、それをつくるためには、いろんな自分がいなきゃいけないんです。

それって、新しい自分に常に出会えるんです。

例えばですけど、インド人の子が留学していて、そうすると、子供がいるから託児所を探してくれないか、という話がある。そこで、それは自分でやれよって言ったら、それまでだけど、よし一緒に探そう、新川崎の市役所に連絡して、これこれこういう人がいてって言って、それも初めてだし、そこでいかに新しい自分と出会えるか。結構ワクワクするんですよ。

自分の中でも新しい発見があるし、カンボジアだとこんな人生になっていて、例えば来日した人が、僕の父はポルポトの時に殺されたんだ、っていう僕らでは全く考えられないような中で頑張ってて、だからこそ彼は自分の家族にはこういう接し方だし、こうなんだなとか、本当にいろんなことが分かるから、そういういろんな笑顔に出会えるのが面白いっていうところがあると思います。

あとは、対面か遠隔って議論がされがちなんですが、教育だって対面でやりますか、とか。もちろん両方選べるんだったら僕は対面を選びがちですけど、でもツールに関しては十何年前からカンボジアで医療やるために遠隔医療だって、それこそ携帯電話でものすごい電波が細い中でやってたんです。

かなり昔からやっていて、色んなことを試しましたけど、だからこそ遠隔って抵抗なくいけますけど、それよりも振り返ると、この人と一緒にいたいな、たとえば吉岡秀人先生。

この人と一緒に働きたいな。自分の人生の一時期をすごしたいな。大串先生。

この映画にも出て下さってますけど、僕はこの先生に本当にお世話になってたんです。

学会に行くたんびに先生、僕も一緒に泊めてください。ホテルの部屋一緒に泊めて下さい。別に僕はホテルの部屋一緒に泊まりたい派じゃないんです。一人が好きだから。

だけど学会で一日中聞いていて、分からないことがいっぱい出てくるんです。その時に一人で帰っちゃうと、皆んなでご飯食べて、お酒飲んで一人で帰って寝て、次の日、また分からないことが沢山やってくるので、だからなんとか、学びのタイミングをふと思った時に聞けるように、無理やりお願いして一緒の部屋に泊めてもらってたんです。

そういう自分の人生のある一つのタイミングをこの人といたいって思ってもらえるようなコミュニケーション。それは、3か月だろうが、1年だろうが、5年だろうがいいと思うんですけど、そういうことがツールを問わずできる。

そういうチャンスが僕、個人としてあと何人と出来るだろうかとか、すごく思っていて、そこが逆にそんなにもう出来なくなっていくのかなとか、自分がここで塞ぎこんでいくと、自分が学ぼうと思ってる人に出会えなくなっていくし、これも不安でもあるけど楽しみでもあって、いろんな人に笑顔が提供できるように、ガッとした関係を作っていきたいと思うし、そこらへんがより凝縮したというか自分の覚悟を持って行動を変えるくらいの、覚悟を持ったコミュニケーションっていうのを遠隔であれ、対面であれ作っていきたいと思います。

それは、ぜひ増やしていくのがいいなと思います。


自称 日本代表

Q,今後の活動について教えてください

馬詰_12年間の活動の広がりを映像の中でも拝見することが出来ますが、

カズさんご自身の活動の次のステージはどのように考えていますか。

この先って何があるんですか。

カズ_今、僕の軸としては慈恵医大で鼻の腫瘍を内視鏡で取り除く手術を日本で一番の症例数やっているということがあります。

慈恵医大の医師として日本の人たちの為にやっています、という軸以外に、日本人として世界の為に日本代表としてやっていきたい。勝手に、自称、日本代表みたいな。

ちょうど、ラグビーワールドカップがあったじゃないですか、僕ラグビーやってるんで、ワールドカップ見てるのとかすごい言われて、論文とか書きながら夜中に再放送があるんで、やってる時間って仕事しているんで、論文やりながら見てたんです。

あのワールドカップやっている人達って、すごい練習してきました、もう歯食い縛って今までにないくらいやってきてこの価値得ました、あの努力があるからあの世界で戦えているわけです。

僕も世界で戦う、戦うというか世界の為に活動したいって、日本人として世界の為にというようになりたいという軸を持ってやっていくので、あれくらいの、もしくはあれ以上の努力が必要なんだな、と思っているんです。

それで僕はやっぱり根本的には技術者なんで、手術っていう技術を持ってやっていくという、その技術をとことん突き詰めたい。

カズ_だから高い技術を持ち続けるし、その高い技術をより追求し続ける、探究するっていうところに関しては、絶対やり続けることになります。

その先で、今までやってきたことをより広げるということになるのであれば、今僕が考えてることは、今まではカンボジア、ミャンマー、ネパール、あの、ごめんなさいカンボジア、ミャンマー、ラオス、まあタイとか、台湾、韓国とか色々ありますけど、そういうような人達と技術の交流というのをさせてもらっていたんでが、そこで、治療を受けているにもかかわらず治らない人達がいて、大体そういう人達はシンガポールに行ったりタイ行ったりとかして、それで何回も治療しても治らなくて、結局自国に帰ってきてカンボジアで泣いてるとか、いらっしゃるんです。

今でもそういう人達が、各国にいっぱいいると思うんで、今このネットワークであったりとか、いろんな外国人の方と一緒に働かせてもらって、交流ができているので、今度はその高い技術を持って、アジア地区で治せなかった人達、治せなくて、でも本当は治せるかもしれないような人達で、まだ困ってる方がいらっしゃっるので、そういう人達を現地の人達と一緒に治していくってことをやっていきたいな、と思います。

より高度な技術でないと治せない患者さん達に思いっきりフォーカスする。

もちろん教育をするってことはやり続けたいんですけど、プラスαで自分の高い技術をもってそういうことをやっていきたいと思いますね。


記念すべき第60回日本鼻科学会にて今回のドキュメンタリー映画の主役であるDr. Balaこと大村和弘医師が日本鼻科学会賞を受賞致しました!

この賞は年に一回、日本全国の中から一人が選ばれる賞で、我々が追いかけてきた大村先生が名誉ある賞を受賞したことにスタッフ一同とても嬉しく、そして光栄に思います。

普段は研究者に送られることの多い賞とのことですが、10種類以上のオリジナルの術式を開発し、鼻科学発展に貢献したということを称されての受賞となりました。

大村先生、おめでとうございます!!

Dr. Bala (a.k.a. Dr. Omura) got the Japanese Rhinologic Society Award 2021.

This award is for one person to be selected from all over Japan every year. He was awarded for his development of more than 10 surgical procedures for sino-nasal cavity.

Congratulations, Dr. Bala!!


「Congratulations!お前すごいな!」

Q,海外でのコミュニケーションで大事にしていることは?

カズ_僕、耳鼻科医として、ものすごく人生を変えたことっていうのは、自分の術式を作れたことなんです。自分の術式を作った時は、やっぱり日本だから匠っていう名前にしたい。〝匠法〟。

僕は、大村和弘なんで、匠じゃないんですけど、匠の技術って言うじゃないですか。

匠にしたいと思って、ひたすら色々考えて、トランスセプタル・アクセス・ウィズ・クロッシング・マルチプル・インシジョンズって、無理矢理なロゴをつけて、匠って作って考えたんです。

一発目を考えた時は、鼻の鼻腔腫瘍のための術式なんですけど、その術式を使わないと取れないものだったんで、目の前の患者さんをみて、どうやって取れるかな、というところで、この方法とこの方法を組み合わせるかんじで、こういう風にやれば上手く取れるかなって思いついた方法だったんです。

思いついたから発表したいんですが、「何だよお前。何だよこれ。こんなの日本で発表するとかあり得ないから」、伝統ある慈恵がこんな奇抜なこと、別に奇抜じゃないんですよ、「こんな奇抜な方法は、ありえない」って言って、「日本では発表しちゃダメ」って言われたんです。

その当時、英語で発表することとか、あんまり慈恵医大としてもやっている訳ではなかったので、海外の学会ならいいかなと思って、海外の学会に出したんです。アメリカの学会に。

そのこととは少し違って、その当時〝匠法〟っていうのを作って術式を発表しようと思っている以外に、日本でどこでも断られちゃった、どうしても治らないというか手術ができない患者さんがいたんです。

僕らのチームが脳外科と一緒に手術することになって、僕の中ではイメージとしてこういう風にやればいいよって、脳外科とも共有出来てたんですけど、日本で全部断られているから、北から南まで、日本の人に相談出来ないんです。

だから、アメリカに学会で行くから、アメリカの先生、その時にスタンフォードに立ち寄ることができたんで、スタンフォードの先生達にこの子の手術のアドバイスを聞こうと思って、スタンフォードに行って、こういう患者さんがいるからどういう風にやればよいかなって、相談に行ったんです。

そうしたら斯く斯く然然、色々相談を受けてくれて、色々なディスカッションをしてくれたんです。医局会みたいな所で。そこで終わればよかったんですが、日本で散々断られている〝匠法〟をちょっとここで、皆んなの前で出してみようと思ったんです。

別に英語ができる訳ではないし、かなり辿々しいものですけど、僕はもっと流暢な英語かなと思って映像みたら、かなり辿々しい英語での映画になってるので皆さん分かると思いますが、辿々しい英語で「ちょっと見てもらっていいですか」「いいよ。いいよ。お前の術式見せてよ」ということで、日本国内では特にうちの中の先生達から、「お前ちょっとこんなのありえないだろ」と言われてたのが、僕が2分くらいの動画にまとめて見せた後、皆んな拍手してくれて、「コングラッチレーション、お前すごいな」って言っくれたんです。

カズ_それが、僕、全然違うなと思って、でも勇気持って、「すいません、ちょっと一個、僕の術式見てもらってもいいですか」、わざわざ日本から、何自分の術式見せに来てんだよ、みたいな話に思われるかと思って、どうしようかと思ったりもしたんですけど、勇気だして言って、そしたらコングラッチレーションってなった。

そうすると術式って論文化しないと、あなたの術式です、ってならないんです。

僕が「〝匠法〟です」って言って、学会で発表しても僕の術式にはならないので論文化する。論文化もハードルが高いんです。

英語で論文書いたことないし、英語しゃべれないし、やったことないんで、そのスタンフォードの会合にいた一番の人の良さそうな人に声をかけて、「ちょっと論文化するの手伝ってもらっていいですか」って言って、その後すぐに学会発表がアメリカであったんで、その時に捕まえてきて「僕の発表こうなんだけど、どこを直せばいいかな、英語どうかな」って言って無理やりお願いして、今までそんなことする人は誰もいないんですよ、急に行って見ず知らずの人にちょっと優しそうだからって声をかけて論文を手伝って教えてもらうなんて、誰もやっていなかったけれど、やってみたら、その人も心よく引き受けてくれた。

それで論文化するためにアメリカに何回か行って、メールでのやりとりも出来たんですけど、僕英語あんまり出来ないから、録音機を買って、今だったらスマホでピッで出来るけど、当時は録音機を買って、録音しながら、パッて言われても分かんないので、学会会場に一緒に行って、肩並べながら直してもらってという感じで、ようやく出来たのが〝匠法〟なんです。

カズ_一回作っちゃえば、やり方は分かるから、今、僕8個、世界に僕の術式を8個出しているんです。

1回やれば出来るんだけど、その1回目がなかなか踏み出せないし、そこで人にお世話になるほど、なんかちょっと失礼かなと皆んな思うけど、それをやり続けたら、助けてくれる人がいっぱいたなと思って、そういうほんとのちょっとしたことを重ねてきた結果で、今の僕の人生はかなり大きく変わったので、それはほんとに国際協力以外でもそうなんで、是非、ちょっとですよ。これがちょっとじゃないって言うんですけど。

それを是非、やっていけるような人生にしてもらえたらなと思います。


お前の技術はアートだ

Q,海外で日本を意識することはありますか?

馬詰_日本の技術をもって世界に行くということは、注目されているというか、実際にそれはファッションでも音楽でも製造業でも、日本の技術というかクオリティーって、日本人が海外に出ていく時の武器になってる場合が多いと思うんですけど、そういう観点から、実際に作られた手術の技術を考えることは出来るんですか。

カズ_僕は今、僕の手術が一番美しいと思っていますけど、少なくとも世界と戦うためには日本で一番になんなきゃいけないし、日本で一番になったからこそ、ようやく世界と戦える舞台になって、そこでも技術者なんで、例えば絵を描く人だって、俺の絵の方が上手いよって絶対思うんですよ、俺の手術の方が上手いよって絶対思ってるんで、そこをはるかに凌駕する美しさじゃないと、「こいつすげーな」って思われないんです。

〝匠法〟を初め売り出したときも、日本でやっていても難しくて、そこで、日本国内の学会で英語で発表すると、英語セッションって誰もやりたがらないんですが、日本語の方が楽じゃないですか、やりやすいし、英語セッションのいいところは海外からの招待講演、ようは偉い人達がくるので、日本の偉い人達も同席するんです、結構偉い人達に聞いてもらえるところなんです。

僕が普通に一人で日本語で〝匠法〟です、新しい術式ですってやっても、小さな会場であまり見てもらえない可能性があるけれど、英語で頑張ってやれば見てもらえる。

そこで韓国の先生が「アートだ」って初めて言ってくれたんですよ。中々そんな「お前の技術はアートだ」って言ってくれたことで、僕も初めて自分の術式をアートだ、僕としてはものすごい褒め言葉で、そういう形で認めてくれる人がちょっとずつ出てきて、それによってまた広がっていって、あいつ面白いぞってなって声を掛けてもらったり、ということで世界に行けてるところはあると思います。でも、美しさは難しいんですよ。

馬詰_例えば日本料理はアートである、みたいな。

味もさることながら、見た目の美しさも、料理人の包丁捌きも無駄がなくなり、まるでたたずまいもアートのようです。そんな意味ですか。

手術の術式がアートとは何を意味しているんですか。

カズ_これもすごく面白くて、そのアートを共有できる人達って少ないし、分かってもらいにくい。

例えばですけど、僕だったら、メス持って内視鏡を構えた瞬間にこの人のメスの角度間違えてるなってすぐ分かるんです。どこまで見えてるなって、それすら内視鏡の画面を見てなくてもちょっと分かっちゃう。分からない人には分からないです、そこらへんは。

僕はメスの角度、粘膜にパーって入ってきて、このラインでいけばスっていくと粘膜が開いて、次のレイヤー出しやすいとか、その先の先まで考えていきたいなと思うんですけど、そこらへんは世界と戦う時に、それだけじゃダメだと思うんです。

それと違う価値観も出していかなくてはいけない。例えばですけど、世界で一番綺麗な術式だと思っているとさっき言いましたけど、何を根拠に思ってるのってよく言われます。それを説明できなくてはいけない。

僕はオリンパス、世界を代表する内視鏡を作ってる会社なんです。その世界を代表する会社が4Kのモニターを販売するときに、どういう目的で販売するかというと、この4Kのモニターを使うととても綺麗に手術ができます、というために4Kのモニターを売るわけです。その時に使われる手術のデモ動画に僕の手術動画を使ってもらっているんです。

つまり世界を代表する会社が、自分たちの社運をかけた、綺麗に見えるという4Kモニターのデモ動画に僕の手術動画を使ってくれた。

オリンパス社だって世界にいっぱい知り合いがいる訳だから、一番上手い人を社運をかけてるから選ぶわけです。だから世界で一番綺麗な手術動画として選ばれて、世界に見てもらえるチャンスが増えたんです。

要は国際学会があるたびに僕の動画を流してくれるので、そうするといろんな国の先生が、僕としてはこのメスの角度すごくねぇとか、よくこんなに出血しないで出来るねとか、このラインどうやったのっていうディスカッションをしたいんだけど、人によってはお前オリンパスの動画に選んでもらえてすげーじゃん、って言うチャンネルがある人、手術のこの細かいところ、こんなに出来るんだっていうチャンネルがある人、いろんなチャンネルがあって見てくれているんだなと思って、そういう意味では世界と戦うにはいろんなチャンネルを自分でプレゼンできるようにしないと僕は世界では戦えないと思っているんです。

ただ、やっぱり術式を技術をわかってもらえる人たちと仕事をしたいなと思いますけど、でもそういうところもありますね。


僕日本から来たんですけど

ちょっと余興やらせてもらってもいいですか?

Q,これからの世界を生きる若者たちにメッセージ

カズ_僕も全然、色々うまく進んでなくて、あの映像だけ12年間で見ると、皆んなガッツポーズして、めちゃくちゃ笑顔でやってるっていうのはあります。

例えば、ミャンマーの知り合いを作りたいと思っていた時に、簡単にミャンマーの知り合いを作れたかっていうと、別にそういう訳でもなくて、だからといってそんなに大変だったわけでもないんです、ほんのちょっとしたことを頑張っただけなんです。

ミャンマーの学会があったんですが、その前に一応ASEANの学会はアジアの医者が集まる学会が2年に1回あるんで、その前の学会がタイであって、タイで僕が学会に出席して、そこで知り合い作ろうと思ったら、全然音沙汰なくて出席できなかったんです。

本来ならアクセプトされて出席できて、そこで知り合いができて、となるはずなんですが。

次の年が、ミャンマーだったんです。ミャンマーにも出したんですけど、また上手く出席できなかったんです。これ2年連続で同じような感覚で終わったら全然進歩ないな、と思って、とりあえずミャンマーに行ったんです。誰も知り合いはいないけれど、学会会場は分かるので。

カズ_学会会場に行って、マウマンカイ先生を、なんかヤンゴンワン、ヤンゴンで1って書いてあるんで、なんかすごい人だと思って。ヤンゴンで1だから、2より1もかなと思ってマウマンカイ先生に挨拶しにいって、僕こうなんですって、まず挨拶したんです。

でも、マウマンカイ先生がミャンマーでどのくらいの力かなんて分かんないじゃないですか、誰も知らないんで。それで、もうちょっとミャンマーの人たちに知り合いを作りたいと思って、ガラディナーという、ASEANの11か国の人達の皆んな偉い人たちが集まって何百人って大ホールで宴会やってるんですよ、必ずやるんですけど、祝勝会みたいな。

そこで、各国の人たちが唄歌ったりするんです。各チーム、はいフィリピンチームみたいな感じで、踊ってみたりとか、ミャンマーチームみたいにやってるんで、日本はASEANに入っていないけど、やらせてくれって、こっそりお願いしたんです。そもそも日本人一人だし、そんな宴会芸好きなタイプでもない、別に歌がうまい訳でもない、でもお願いしますっていって、いいよ、いいよ、みたいな感じになったんです。

そこで必死にミャンマー語をもう一回復習して。一緒にいたセッパインとか、セインとか、今回映画に出てくる奴らに教えてもらって、どうやったらいいのかなとか、もう一回復習して待ってたんです。そしたら11か国全部終わって、「はい、おしまいです」みたいな感じになったんです、あれ、僕日本人で、さっき司会の人に呼んでもらうって約束したのにおしまいです、ってなったんです。

それで、お開きになりそうだったんで、お疲れさまみたいになった時に、何百人もいるところで「すみません」って言って、「僕、日本から来たんですけど、ちょっと余興やらせてもらってもいいですか」と言って、一人で壇上に上がって、歌います、みたいな感じでアカペラでミャンマー語の『乾杯』を歌ったんです。

その結果、ミャンマーの人が皆んな喜んでくれて、壇上にワーっと上がってきてくれて、大合唱になったんです。

それって、やめようと思うきっかけなんて、いくらでもあったんです。だけど、やめれば3分後には壇上には出れなくて、今年も出席できなかったな、って言ってトボトボ帰るだけだけれど、そこを「すみません」って言う、あの勇気。

ほんのちょっとしたところなんだけど、今となったら大きな違いで、そのおかげで、こいつ面白そうな奴だなってなって、結局のところヤンゴン1のマウマンカイ先生、ヤンゴン1、1番がやっぱ凄かったんだっていうことで、マウマンカイ先生のところにいかせてもらうことになって、手術ができることになったんです。

それを何のことはないなと思える人もいれば、ものすごく勇気があると思う人もいて、僕としてはどちらかというと、すごい勇気を振り絞らないとできないタイプで、今となったら僕をみたら、そういうの出来るでしょ大村、って皆んな思いますけど、僕の親の、「昔は一人ぼっちでした」みたいな、すごく悲壮感ただようコメントが暗い感じであって、たしかにそうだったなと思います。

別に僕、そんなにそういの得意なタイプじゃないし、だけどそこをちょっとずつやっていくことによって、切り開いてこれたというか、結果自分か楽しくなっているんで、やってよかったなと思えるし、というところの積み重ねなんだなって思います。


「このドキュメンタリーは主人公と監督の関係もユニークだ!

そこももっと知りたい」

というご意見を頂き、クラウドファンディングを開始させて頂く前にもう一つの動画を作成致しました。

「Dr. Bala」公式トレイラーではDr. Balaこと大村和弘医師の12年間にフォーカスが当てられておりますが、

今回の動画は大村医師と監督であるコービーとの15年間の関係とそこから広がってきたこのドキュメンタリーの出来上がる過程を描いてみました。

最後の完成に向けて、これからクラウドファンディングを始めさせていただきますので、引き続きみなさんのご支援、ご協力をヨロシクお願い致します。


一週間を毎年毎年つなげていけばいいんだ

Q,12年間の東南アジアの医療支援を振り返ると?

馬詰_色んなドキュメンタリーを観るとお医者様のドキュメンタリーってそれなりに世の中にあるのですが、12年間ドキュメントしてる映像ってそんなにあるもんではない。

そういう意味でご自分の12年間がこの2時間に凝縮されてるって、率直にご本人としてどんな感じですか。

カズ_僕個人としては、映画の一番初めの2008年の時のセリフは今は覚えていないんです。

だから、あの時のことがずっと続いていて、僕の中ではその年々によって、僕の個人的な医者としての目標も違うし、できることも変わってくるし、色々紆余曲折ありながらやっていたけれど、やっぱり一番初めの2008年のところのイメージに戻っていくというか、12年間コツコツとやり続けたっていうところはありますね。

自分としては、全然そんなにコツコツタイプ、この見た目もそうですけどコツコツタイプの人間ではないと思っていたんですけど、でもやっぱりやりたいことをやる為にコツコツやってきたんだなって、振り返って今までの自分の歩いてきた道を見ると、脈々とちゃんと繋がっているんだな、というのは思いました。

馬詰_映画の冒頭に入っている、2008年の吉岡先生との出会いのところのお話ですか。

カズ_そうですね。吉岡秀人先生の講演会を聞かせてもらって、一週間、国際協力って、僕らが国際協力って、その当時というか今もそうですけど、なんか子供とも会えない、家族とも会えない、僕は一人でこの国の為に生きていく、みたいな、そういう本当にダイヤモンドみたいな人がやるもの。

その当時だと中村哲先生もそうですし、岩村昇先生もそうですし、その次に吉岡秀人先生がいらっしゃって、というような感じだったんですけど、全員ダイヤモンドが輝いているような、こんなのは到底出来ないな、と思うような国際協力のイメージをガラッと変えてくれたのが吉岡秀人先生の講演会でした。

その考えにも出会えたので、すごく簡単にいうと、1週間でいいんだ、1週間を毎年毎年つなげていけばいいんだ、ということでした。

もちろん繋げ方ってすごく大変だし、どういう風につなげていくのかって人それぞれあると思うんですけど、それを初めにこういうやり方があるんだ、じゃあ自分なりにどう繋げていく形がいいのかかなり模索してましたが、そのことを12年、13年やり続けて大体の形になってきのが今現在で、これからまだ広がっていくのですが、とりあえずこの13年間で自分なりの形を見つけたところが、何というか、上手くって言い方は失礼ですけど、しっかりと描いてくれているな、というのはありますね。


僕の時間を彼のために使う 彼の時間を僕のために貰う

Q,ボランティアのやり方が変化してきた点はありますか?

馬詰_そこが非常にユニークであり、かつ、実は示唆にとんでるなと思いました。

今となってはボランティアとして技術を教えた、現地の若いお医者さんたちが非常に実力もつけてきていて、その人達の中で一部の人達は日本にも研修にも来ている。

そういう双方向というか、一方的な技術の導入というボランティア活動ではなくて、もうちょっと相互交流があるというか、そういう点にも繋がっているんですか。

カズ_そうですね。やっぱり僕達がカンボジアに入って技術を伝えるよって、まず始めに医者がこの一週間だけで一番やり易いのは、現地にパッと入ってやるよと、手術やるよ見といてよ、俺うまいからバーってやって、ダーって助けて終わる。

大体そこで患者さんのお金とか治療費とかっていうのは、こっち側が持つよ、というようなタイプが多いかなと思うんですけど、それだとやっぱり、来年に繋がらないし、何というんですかね、俺こういう風になりたいなって、なかなか思ってもらえるような形になりにくいなって思うんですよね。

やっぱりこの人みたいになりたいな、この人と一緒に働きたいな、って思ってもらえるのは、その人に自分の為の時間を作って、使ってもらう、僕の時間を彼の為に使うし、彼の時間を僕の為に貰うし、ある程度、双方向の物がないとどうしても、この人に教わりたいなとか、この人みたいになりたいなって憧れの対象にはちょっとなりにくいかなって思うので。

そこをどういう風に見せていくのかとか、感じてもらうのかっていうのは、すごくそこが一番難しいところでもあり、楽しいところでもあったりしますね。

カズ_医者がやっぱり技術者として一人で行ってできることはどうしても限られていて、僕がコービーさんに来てもらったりするのは何でかというと、実は僕らがやっている一週間を一年間に引き続き伸ばすことができるんですね。

例えばですが、その一週間の映像をコービーさんが撮ってくれて、大体コービーさん徹夜とかで頑張って映像をまとめてくれるんですよ。

そうすると、彼らが助手に入ってる姿とか、僕と一緒にやっている姿とかが映像でパッとあると、多分その先に自分がオペレーターとして僕のようにっていう言い方はちょっとおこごましいけれど、いい手術ができるというビジョンがすごく明確にイメージしやすくなるんじゃないかなと思うんですよ。

助けるというか、そういう力が映像にあるので、やっぱりコービーさんに映像を撮ってもらえたら、ドキュメンタリーで追っかけてくれている以外に、現地の人達の為の映像というのを作ってもらったりしてくださっているのが僕としては助かるところです。

そうすることで、皆んなが来年の為にまた頑張ろう、来年大村たちが来る時のためにもっと成長しよう、もっとかっこいい画を撮ってもらおう、と思ってもらうっていうところに繋がってくるかなと思うんです。


ワクワク感の価値観

Q.ボランティアの楽しさとは何ですか?

馬詰_そのような感覚っていうのは、カズさんのお父様も映画の中にも出演されてますけど、お医者さんのお父様の影響とかってあるんですか。

カズ_うちの父親も母親もそんなにボランティアとかっていう感じでも、別に医者になれとか言われたわけでもないし、あなた好きに生きなさいよ、というような感じで、まあ比較的、自由奔放な感じだったんで、そこの影響っていうのはあんまりないかなって思いますね。なんか自然とですね。

カズ_意外にこれ、皆んなボランティアじゃないですか。

今回この最近まで何十人と医者が来たりとか、学生も来たりとか、皆んなボランティアでやってくれてますけど、とても自然で「おれはボランティアやってやってんだよ」みたいな感じは一切ないし、皆んなこの活動によって人生がやっぱり豊かになってるって言ってくれてるので、比較的なんと言うか、そこらへんの価値観の共有、感覚の共有はできてるんじゃないかと思いますね。

コービー_撮影してても、やっぱり皆んな生き生きしていて、日本から手伝いに来ているお医者さんとか、医学生とか看護師さんとかもすごく生き生きしていて、ちょっとfacebookとかに上げたりしても「この参加している皆んな凄い生き生きしているね」みたいな事を言う人のコメントとかがあったりして、なんでだろうかなと思ってたら、やっぱりボランティアを自分でやりたいからやってる意識があるからこういう顔になれるんだなって、すごい撮っててなるほどって、途中から思ったりもしたんですよね。

カズ_まあ皆んながゴルフやったりとか、サーフィンやってたりとかする時につまんない顔でやってる人がいないのと一緒で、皆んなそういう感じかなと思いますね。

自然と一番初めの国際協力で入らせてもらった時のスターティングメンバーは今誰もいないんですよ。

やっぱりそういうところって、自然と淘汰されていくっていうか、僕がもっているこの楽しいなっていうワクワク感の価値観を共有できてる人が今やっているので、でもそこが例えば来年再来年、5年後10年後、そこまで同じメンバーじゃないとしても、それはそれで全然いいかなと思うんですよね。

馬詰_そのことっていうのは、最初の方にもお話ありましたけど、年に7日間のボランティア活動というか、そういう趣味としてのボランティア。

これまでの先輩達のやってきたボランティア活動とハードルが違うというか、関わり方がちょっと違う角度になっているということに繋がっていますか。

カズ_そうです。そうだと思いますね。

やっぱりこの7日間、医者って、僕は夏休みで行ってますけど、夏休みプラスαで休みを取れる時間ってそんなにないんで、その一週間、5日間くらいだったら行けるかなっていうので、5日間とか4日間を使って行く、というような形じゃないと今の医者の社会の中でうまく趣味としてのボランティアっていう形では入れないと思います。

年間4日間から7日間、それを一年間の中でどういうふうに日数を増やすか、という試行錯誤はすごくしていて、なんとか今の形になっているというところはありますね。


空いた時間を使ってボランティアをやろう

Q.ボランティアを始めたのはいつ頃ですか?

馬詰_映画になる前のストーリというのがやっぱりカズさんにすでにあって、それを受けて、カメラが回り始めるところにちゃんと繋がっているんだな、ということを感じました。

映像の中でもボランティアとして学生でしたよね、最初カズさんは。

まずは学生時代の話をちょっとお話しいただいてもよろしいでしょうか。

カズ_ボランティアって、僕、中学校から高校まで青少年赤十字部っていうのに、陸上もやってたんですけど、青少年赤十字部に入ってたりとかしてて、ボランティアって僕にとってはかなり身近だったんです。そのきっかけはただ単に何のこともないバスに全盲の目が見えない杖ついてる人が乗ってきた時に、なんか話かけるの偽善者っぽいなってちょっと思ってたりとか、でも話かけるときにどういう風に話せばいいのか分かんなかったりとか、そういうところをちょっと解決したいなって。もう一歩知りたいなっていう好奇心っていう言い方がいいの分かんないですけど、それで市役所に行って、夏休みのボランティアって結構募集してるんですよ。

初め盲人卓球のボランティア。目見えない中で、バーンって卓球のネットの下を球を転がしてやるんですよ。僕が目を使ってても負けちゃうみたいな、日本代表みたいな人と戦ったりとかして、そのボール出す練習をしたりとか、練習というかボール出す手伝いをさせてもらったりとか、点字を練習してみたりとか、手話練習してみたりとかっていう、そいういうことを一つ一つ知ることによって、ボランティアって一種、「凄いわねボランティア、あなたボランティアを高校生でやってるの」みたいな見方をされたこともあります。

今でもそうですけど。国際協力をやってます、って言うと「先生すごいですね国際協力」そういう風に言われるんですけど、そういうのものではなく、僕の日常の一つで、それをやることによって色々なことを知ることができて、僕の毎日の行動がちょっと変わって、今でも自然に普通に全盲の人がいたら声をかけられるし、車椅子の人がいたら坂道だったら後ろ向きに下ろしたほうがいいよとか、目の見えない人に食事を介助する時は、時計の位置でご飯は何時ですよって言ったりとか、そんなほんと些細なことですけど、そういうことをして、行動に移して、それがまた喜んでもらえてみたいな、そこをダイレクトに感じられる一つの喜びというか楽しみというか、自分の成長というか、その一つがボランティアであったんですよね。すごく身近に、「夏休みだ、よし、じゃあまた空いた時間を使ってボランティアをやろう」みたいな感じであったので。

馬詰_今の東南アジアの医療支援ボランティアと似た感覚で、ずーと学生の頃から続けてこられたということですね。

カズ_ボランティアって、すごい高尚なものみたいな価値観って、ちょっと違うんじゃないかなと思って、逆にそういう風なことがあるからボランティアってハードルが高くなっちゃたりとか、偽善者っぽいなと思ったりとかされてしまう。

僕はボランティアは趣味ですって言ってるんですけど、皆さんが土日に自分のお金を払ってゴルフに行く、年間で言えば結構なお金ですよね。それを僕は一年に一回、二回、東南アジア各国にもう少しまとまったお金で、皆さんが一年間のゴルフに使うお金をバンと自分のためでもあり現地の人のためであり、使ってやってますよっていう、それがすごい楽しみだし、毎日の張りになるし、そういうような形で、今自然と僕の日常に溶けこんでいる感じかなと思いますね。


Dr. Bala Trailer

Dr. Bala, who has been doing volunteer work seven days a year for twelve years, brings big changes to the underdeveloped and untrusted medical care in Southeast Asia.

A Japanese doctor, Dr. Kazuhiro Omura (aka Dr. Bala) moved to Myanmar to start medical volunteering in 2007. Bala means “powerful” in Burmese. He got his nickname, Dr. Bala at that time. There were many poor patients who could not go to the hospital for long time and their symptoms worsen. He faced many situations that he could not experience in Japan. Dr. Bala also volunteered for medical care in Cambodia, Nepal, and Thailand and he felt many problems such as discrimination and lack of education. He decided to return to Japan in 2009. His these 2 year-experience gave him the idea of his way of volunteering.

Once he went back to Japan, he started going to Cambodia one week every year to share his surgical knowledge and skills to local doctors from 2010 to 2019 using his summer vacation. Dr. Bala’s medical influence in the countries is enormous. His passion and long term activities have changed the attitude and consciousness of local doctors and Japanese doctors who joined his volunteer activity.


Dr. Bala 日本語版予告

このドキュメンタリーはDr. Bala(ドクター・バラー)と呼ばれる日本の医師である大村和弘氏の東南アジアで続けてきた国際協力の活動、いわゆる医療ボランティアを通じて、国を越えた人と人とのつながりやそこで繰り広げられる約12年間のドラマを追った話です。

Dr. Balaは自分の夏休みを利用して、年に1週間ほど東南アジアへ行き、医療活動をやるという方法で行なっています。その活動は12年を越え、現地ではその分野では日本人医師としては一番有名な存在になっていると言っても過言ではない状況であるのに、日本でそれを知る人はほとんどいません。何故ならその1週間以外、日本にいる時は普通に一人の医師として仕事をしているからです。

彼は国際協力に情熱を燃やし、地道に続けてきました。最初は右も左もわからぬ様な状態でミャンマー、カンボジア、ラオスなどに一人で乗り込み、人とのつながりを大切にしながら自分の道を切り拓いていきました。

彼が望むのは”現地の医師が自国の患者を治療できる様に彼ら、彼女らに技術と誇りを手渡す”こと。

話の核となるのは国際協力なのですが、年に1週間自分が情熱を注ぐことをやり続けることで国を越えて人生の豊かさを創り出している彼の姿から人生で一番大切なものは何かを考えるキッカケになってくれればという気持ちがあります。